「その日、労基署が来た」前編 ――出勤簿だけの勤怠管理に潜むリスクとは?

杉山 晃浩

第1章:突然の訪問 ― 労基署の影

その日は、いつもと変わらぬ朝だった。
8時10分。工場の音が鳴り始め、社員たちが作業場に散っていく。
その静けさを破ったのは、事務所のインターホンの音だった。

「宮崎労働基準監督署の者です。田中社長、お時間よろしいでしょうか?」

玄関にはスーツ姿の男性と女性、ふたりの監督官が立っていた。
一瞬、なにかの勧誘かとすら思った。
だが「労働基準監督署」の名に、社長・田中誠の顔が固まった。

「…なにか、うちに問題がありましたでしょうか?」

「特定の従業員からの申告がありまして。労働時間に関する実態を確認させていただきたいのです。」

社長の心拍が、急に速くなる。
“申告”という言葉が重く響いた。


第2章:求められたもの、それは“記録”だった

応接室に通された監督官は、静かに、しかしはっきりと言った。

「Aさんの過去2年間の勤怠記録をご提出ください。出退勤時刻、残業時間、休憩取得状況など、客観的な記録をお願いします。」

社長は思わず苦笑いした。

「うちはね、昔ながらのやり方でして……出勤簿に社員が自分で記入してハンコ押してるんですよ。皆、まじめですし、特に問題なんて起きたことないんですけどね…」

だが、監督官はその言葉に頷きつつも、書面に目を落としながら淡々と言葉を続けた。

「そうですか。ただ、勤怠管理については2019年から“客観的な方法”での記録が原則になっています。タイムカードやICカードのログ、パソコンの使用ログなどが対象です。」

「ああ……一応、警備会社のセキュリティカードがあって、それで出入りは管理されてます。でも、あれは出退勤とは関係ないって思ってましたので…」

社長の言葉に、沈黙が落ちた。


第3章:まさかの証拠 ― 社員の“ノート”

さらに驚いたのは、申告者であるA社員が、自分の出退勤時刻を日々ノートに手書きで記録していたという事実だった。

「Aさんは、毎日の日報に出社・退社の時間を細かくメモしておられました。提出されたコピーをこちらでも確認しております。」

提出されたノートには、こう書かれていた。

8/3(木)7:18 出社 17:46 退社(休憩50分)
8/4(金)7:22 出社 18:05 退社(昼休憩なし)

そして、会社に残されていた出勤簿には、毎日「8:00出勤 17:00退社」の押印。

「うちはね、多少早く来ても『気をつけてよ』くらいしか言ってないんですよ。Aさんは真面目で責任感が強いから、現場の段取りを考えて早く来てたみたいで…でも、強制した覚えは一切ないですよ!」

そう語る社長の顔は、困惑と自責が入り混じっていた。


第4章:専門家を間違えた ― 誠意が裏目になる瞬間

「社労士さんには、こういうの相談してなかったんですか?」

と問われた瞬間、社長の表情がさらに曇った。

「……実は、うち、社労士は付けてなくて…。何かあると顧問税理士に聞いてたんですよ。『この程度なら大丈夫ですよ』って言われて…」

そこには、悪気などなかった。
むしろ、誠実に、従業員の生活を守っているという自負すらあった。
創業以来35年、派手な成長はないが、地域で堅実にやってきた企業だ。
だが、“誰に聞くべきだったか”を間違えた。

税務と労務は違う。
専門家の領域を越えた判断が、今回の火種になっていた。


続く物語――

社長・田中誠は、その日を境に、経営者としての“知らなかったリスク”と向き合うことになる。


次回予告(第2回):
「その日、労基署が来た」後編――今すぐ見直すべき勤怠管理の盲点と社労士の視点

  • 勤怠管理に必要な“客観的記録”とは

  • なぜ出勤簿だけでは足りないのか

  • 社労士が語る「あるあるトラブル」とその回避策

  • 今からでも遅くない、勤怠管理体制の整え方

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