明治の財閥はなぜ賞与を出したのか?──“優秀な人材”を逃さない経営戦略とは

杉山 晃浩

第1章|「賞与は慣習ではない」──経営者が気づくべき本質

「賞与は払うものだと思っていたけれど、なぜなんだろう?」

ある中小企業の経営者がふと漏らした一言。給与は毎月払うものとして当然だが、賞与は義務ではない。なのに多くの企業が、年に2回のボーナスを当然のように支給している。

この問いへの答えを探ると、実はそのルーツは明治時代の財閥系企業にたどりつく。そしてそこには、現代にも通じる「人材戦略」としての賞与制度の本質があった。


第2章|明治の産業革命と人材争奪戦のはじまり

明治維新以降、日本は急速な近代化に向けて舵を切る。製糸業、造船、鉄道、銀行といった新たな産業が次々に誕生し、それに伴って“雇用”のあり方も大きく変化していった。

それまでは「奉公人」という家族的な関係だった労働力は、より契約的・組織的な「従業員」へと変貌。給与体系も整備され、「職能給」「役職給」「手当」などが導入されていく。

このとき、多くの企業が直面したのが「優秀な人材を確保し、定着させる」ことの難しさだった。特に、財閥や官営工場は、技術者や簿記係などの知的労働者を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げていた。


第3章|三井財閥の賞与制度──年2回+特別賞与の導入

こうした中、三井銀行(現・三井住友銀行)は明治20年代にはすでに「年俸+賞与」の制度を採用していた。賞与は年に2回、夏と冬に支給されるのが原則で、個人の成績や勤務年数に応じて金額が変わった。

たとえば、ある支店長クラスでは年俸500円に対して賞与100円(20%相当)、一般行員では年俸150円に対して賞与30円(同じく20%)程度が支給されていたという。

一方、三井物産ではさらに「功労金」「精勤手当」などを加えた多層的な賞与体系が整備されていた。これは、

  • 優秀な人材の流出を防ぐ

  • 忠誠心を育てる

  • 成果主義の導入による生産性向上

といった戦略的意図が背景にあった。


第4章|三菱財閥の人事戦略──報酬より“信頼”と“昇進”で惹きつけた

三菱の創業者・岩崎弥太郎は、賞与の金額よりも「昇進機会」と「社内評価」によるやる気の引き出しを重視した。幹部候補生には明確なキャリアパスを提示し、結果を出せば賞与とともに肩書きもついてきた。

三菱内部では、年俸+賞与+役職という三本柱で従業員を動かす仕組みが整えられており、これは現在の等級制度や目標管理制度の先駆けとも言える。

特に注目すべきは、昇進とセットになった賞与が「上から認められた証」として機能していた点である。これは給与以上に、組織内のモチベーションを維持する強いインセンティブとなった。


第5章|明治の賞与制度から見える、官営工場との違い

明治時代、政府が運営する官営工場(製鉄所や造船所など)でも賞与制度は導入されていたが、その特徴は「一律給付」だった。基本的に年功序列で、成績や貢献度に関わらず同じ額が支給される。

たとえば、工場労働者で年俸80円に対し、賞与は15円〜20円程度。民間の財閥企業と比べると、インセンティブとしての機能は弱く、「やる気を引き出す設計」とは言いがたかった。

この差が、後の民間主導経済の発展と、官営事業の民営化の一因にもなったと言われている。


第6章|令和の中小企業が取り入れたい“明治式”賞与制度・3つの工夫

明治時代の賞与制度には、現代の中小企業経営にも活かせるヒントが詰まっている。

1. 成果と連動させる(評価型ボーナス)

単なる“均等支給”ではなく、行動や成果、チーム貢献に応じて差をつけることで、モチベーションと納得感を両立できる。

2. メッセージを添える(人事評価+感謝)

金額だけでなく、「なぜこの額か」「どう評価しているか」を伝えることで、賞与の意味が格段に深まる。

3. 特別賞与の活用(ピンポイントな報奨)

期中の特別プロジェクト、営業成果、トラブル解決など、突出した貢献には“特別ボーナス”を設けることで、成果主義文化を根づかせやすい。


第7章|まとめ:賞与は“戦略”である

明治の財閥は、「人が会社をつくる」ことをいち早く理解し、人材マネジメントを先進的に行っていた。その手段のひとつが賞与制度だった。

今、目の前にいる社員に、どれだけ未来への期待を伝えられるか── それが賞与の「本当の使い方」であり、「会社の本気度」が試される瞬間である。

中小企業こそ、賞与を“慣習”から“戦略”へと進化させるタイミングなのかもしれない。

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