M&Aで“欲しい人材だけ”を引き継ぐ方法──社労士が解説する雇用承継の実務

杉山 晃浩

1. はじめに:M&Aで一番のリスクは「人材承継」

中小企業のM&Aは年々増加しています。事業承継の手段として、あるいは新規事業参入のための成長戦略として、M&Aは経営者にとって有力な選択肢になりました。

しかし、現場で相談を受けると「売り手企業に勤務態度の悪い社員がいるのだが、承継したくない」という声が少なくありません。M&Aの成否を分けるのは、財務データや契約関係以上に「人材承継のあり方」だと感じます。

特に日本の労働法制は従業員保護が強いため、一度承継した社員を後から切り離すことは困難です。結果として「良い社員まで辞めてしまい、不良社員だけ残った」という逆転現象すら起きています。

この記事では、社会保険労務士の視点から「欲しい人材だけを引き継ぐためのM&A実務」を整理し、トラブルを防ぐための具体策をお伝えします。


2. M&Aと雇用承継の基本を理解する

まずはM&Aの代表的なスキームと、従業員承継の扱いを整理しましょう。

  • 合併(吸収合併・新設合併)
    → 従業員の雇用契約は自動承継。全員まとめて引き継がれます。

  • 株式譲渡
    → 会社の法人格はそのままなので従業員も全員そのまま。中小企業M&Aで最も多い方法。

  • 事業譲渡
    → 特定の事業だけを切り出し、従業員も対象事業に関わる人材を選定。個別同意が必要

  • 会社分割
    → 事業単位で切り出し、自動的に承継。合併に近いが事業再編に使われることが多い。

👉 まとめると、合併・株式譲渡・会社分割は「全員引き継ぐ」のに対し、事業譲渡だけは「選別承継」が可能になります。


3. なぜ“不良社員”も一緒に承継されてしまうのか

経営者が「承継したくない社員がいる」と思っても、基本的には避けられません。

理由は、日本の労働法制が「雇用の継続」を強く保護しているからです。特に合併や株式譲渡では、雇用契約は法律上当然に承継され、経営者が恣意的に「この社員はいらない」と切り捨てることはできません。

さらに、買収後に解雇しようとしても「経営者が変わったから解雇」は整理解雇の4要件を満たさず、裁判では不当解雇と判断されやすいのが現実です。

つまり、M&Aの時点で“誰を承継するか”を設計することが唯一の選択肢となります。


4. “欲しい人材だけ”を引き継ぐためのスキーム選択

ここで有効なのが「事業譲渡」です。

事業譲渡の強み

  • 承継する事業に関わる人材を選別できる

  • 不要な事業や不良社員を承継対象から外せる

  • 売り手と買い手双方のニーズに合わせた柔軟な設計が可能

他スキームとの比較

  • 合併・株式譲渡・会社分割 → 全員引き継ぎ(選別不可)

  • 事業譲渡 → 承継対象を絞れる(ただし従業員の個別同意が必要)

👉 「欲しい人材だけを引き継ぎたい」と明確に考えるなら、事業譲渡を選ぶのが最も合理的です。


5. トラブル防止のための雇用承継テクニック

ただし、事業譲渡は「個別同意」が最大のハードルになります。ここを軽視すると、説明不足や不公平感から従業員が反発し、逆に優秀人材が辞めることもあります。

(1)承継対象者の合理的な選定基準

  • 業務スキル・資格(事業に必須かどうか)

  • 業務遂行能力・勤務実績

  • 事業との関連性(どの事業に従事していたか)

「勤務態度が悪いから外す」だけでは不当差別と受け止められる可能性があります。必ず「業務上必要かどうか」という合理的基準を設けることが重要です。

(2)同意取得のプロセス

  • 説明会を開き、M&Aの目的と承継対象者の基準を明確に示す

  • 個別に面談を行い、転籍の同意を文書で取得する

  • 手続きの記録を残し、後から「強制された」と言われないようにする

(3)残された従業員への配慮

  • 承継対象外になった社員には、売り手企業側での今後の処遇を明確にする

  • 「切り捨てられた」という不満を最小化する仕組みを整える

(4)労働組合・行政対応

  • 労働組合がある場合は事前協議が必須

  • 労働局や労基署から「不当労働行為」と指摘されないように、手続きは慎重に進める


6. ケーススタディ:うまくいったM&A・失敗したM&A

成功例

ある医療法人の事業譲渡では、承継対象を「専門資格を持つ職員」「患者対応に不可欠なスタッフ」に絞り、個別同意を丁寧に取得しました。結果として、欲しかった人材を確保でき、サービスの質を維持したままスムーズに承継が完了しました。

失敗例

一方で、別の事例では承継対象者の説明が不十分で「なぜ自分が外されたのか」と従業員が不満を爆発。残った職場環境が悪化し、承継した社員のモチベーションまで下がってしまいました。

👉 同意取得と説明責任を軽視すると、人材承継は逆効果になることがわかります。


7. まとめ:人材承継の成功は“準備と説明”にかかっている

M&Aにおいて「良い社員だけを雇用継続したい」というニーズは現実的です。そして、そのためのスキームとしては事業譲渡が最も有効です。

しかし、方法を間違えれば「優秀人材の離職」「不当労働行為の指摘」「組織全体のモラルダウン」といった深刻なリスクを抱えます。

結局のところ、人材承継を成功させるカギは次の3点に集約されます。

  1. 承継スキームの適切な選択(事業譲渡が有効)

  2. 合理的で客観的な選定基準の設定

  3. 従業員への丁寧な説明と同意取得

M&Aは財務や契約だけでなく「人」によって成否が決まります。数字だけに目を奪われず、雇用承継の実務に目を向けることが、経営者にとって最大のリスク防止策なのです。

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