退職金制度の見直しが未来を守る ― 社労士が語る、インフレ時代の賢い選択1
杉山 晃浩
【第1回】退職金制度を放置する危うさとは? ~インフレ・賃上げ時代に潜む経営リスク~
はじめに:物価・賃金上昇が止まらない時代に突入
「今年も物価が上がった」
「うちも最低賃金に合わせて初任給を引き上げた」
そんな声を、最近よく耳にするようになりました。
ここ数十年、日本経済はほぼゼロインフレが続いていましたが、いまや様相が一変しています。
物価は上がり、賃金水準も各社競うように引き上げを進めています。
こうした変化は、給与や仕入れコストだけでなく、退職金制度にも静かに、しかし確実に影響を及ぼしています。
しかも、その影響に気づいていない企業も少なくありません。
もし今、退職金制度を「昔作ったまま、特に見直していない」という状態なら、それは将来大きな経営リスクを抱え込む予兆かもしれません。
なぜ、退職金制度が“見えないリスク”になるのか?
退職金制度の特徴は、
「今すぐ支払うお金ではない」
という点にあります。
目の前の売上や利益に直結するわけではないため、どうしても後回しにされがちです。
「退職するのはまだ先の話」
「当面は現金も足りている」
そんな感覚で、つい油断してしまうのです。
しかし、制度設計を誤ったまま放置していると、
“ある日突然”資金繰りに大きな穴が開くリスクをはらんでいます。
【具体例】知らず知らずのうちに積み上がる退職金債務
例えば、こんなケースを想像してください。
宮崎県で建設業を営むA社は、社員20名、平均年齢42歳。
基本給×勤続年数×係数で退職金を支給するルールを作って20年以上が経過しました。
これまで大きな退職もなく、「まあ、退職金なんて大した金額じゃないだろう」と特に積立もしていませんでした。
ところが、最近になって、
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労務リスク対策として賃金ベースアップを実施
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若手確保のため、初任給も大幅アップ
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物価上昇によるベース賃金全体の底上げ
が重なり、数年後には高卒で入社した古参社員たちが一斉に定年を迎えることが判明。
改めて退職金支払額を試算してみると――
総額で5000万円超。
当然そんな資金準備はしておらず、慌てて銀行に相談したものの、
「資金調達に半年以上かかる」
「条件次第では借入できない可能性もある」
と言われ、経営危機に直面してしまったのです。
将来支給額の「爆発リスク」
退職金制度が怖いのは、
**「指数関数的に支払負担が膨らむ可能性」**がある点です。
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基本給が上がる
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勤続年数が伸びる
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退職者数が重なる
こうした要素が掛け算のように効いてきます。
特に近年、
✅ 定年延長(65歳までの雇用)
✅ 継続雇用制度(再雇用)
などの影響で、昔よりも社員の在籍期間が長期化しています。
「まあ、うちは中小企業だから大丈夫だろう」
と思っているうちに、
将来、何千万円単位の支払い義務が降ってくることも珍しくないのです。
退職金不払いが招く訴訟リスク
では、もし「うちにはそんな大金、用意できない」となった場合、どうなるのでしょうか。
退職金は、単なる“気持ち”ではありません。
多くの会社では、就業規則や退職金規程に支給条件・支給額のルールが定められています。
労働契約法により、
退職金規程=労働契約の一部
とみなされます。
つまり、たとえ経営難であっても、勝手に減額や不払いは認められません。
退職者側から訴えられれば、
✅ 高確率で会社側敗訴
✅ 支払い命令+遅延損害金支払い
✅ 悪質と認定されれば会社名公表
といった最悪の事態に発展する可能性すらあります。
一人二人の退職者トラブルならまだしも、
「団体交渉」「労働審判」「集団訴訟」に発展すれば、
経営そのものが立ち行かなくなりかねません。
M&A・事業承継における「隠れ負債」問題
さらに、もう一つ重要な視点があります。
それは、事業承継やM&A時に退職金制度が重荷になるという問題です。
買収希望企業や後継者が、必ずチェックするのが
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将来支払うべき退職金総額
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制度の透明性
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積立状況
です。
もし「退職金債務が巨額なのに、積立ゼロ」という状態だと、
✅ 企業価値が大きく減額される
✅ 買収そのものを断られる
✅ 承継後のトラブルを警戒される
といった事態に陥ります。
結果、
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思ったような値段で会社を売れない
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良い後継者が見つからない
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苦労して育てた事業を手放せない
という、経営者にとって辛い結末が待っています。
【まとめ】未来の経営リスクを静かに積み上げないために
退職金制度は、
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すぐに問題化しない
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しかし確実に経営に影響を及ぼす
という、ある意味「経営者泣かせ」の存在です。
✅ 物価・賃金上昇による支払額の膨張
✅ 退職金不払いによる訴訟リスク
✅ M&A・事業承継時の企業価値低下リスク
これらは、今見直さなければ、後で手遅れになるリスクです。
経営者が未来の安心を得るためには、
「退職金制度は、放置するものではない」
と認識を改めることが第一歩です。
次回は、特に中小企業において採用されることが多い
「中小企業退職金共済(中退共)」の制度について、
その強みと限界を詳しく掘り下げながら、
「インフレ時代に本当に頼れる制度なのか?」を考えていきます。