「なぜ今もボーナスを払うのか?」江戸時代から続く“賞与”の本質に迫る

杉山 晃浩

第1章|その一通のメールからすべてが始まった

「今年の賞与、どうしますか?」

6月某日、経理担当からのメールに目を通した社長のAさん。毎年の恒例行事のように夏のボーナス支給時期が近づく中、ふとこんなことを思った。

「そもそも、ボーナスってなぜあるんだ?」

労務士からは「就業規則どおりに支給すれば問題ありません」と言われてはいるが、なぜ“年に2回まとまったお金を渡す”という慣習が、こんなにも根強く残っているのか。誰も明確に答えてくれない問いに、社長の探究心が芽生えた。

「ちょっと調べてみるか…」

こうして、A社長の“賞与の成り立ち探求”が始まった。


第2章|江戸の町に響く掛け声:「仕舞い銭」を渡す商家たち

江戸時代、今でいう中小企業にあたる商家では、多くの奉公人(丁稚、小僧、番頭など)が住み込みで働いていた。その奉公人に対し、年末の“仕舞い”のタイミングで渡されたのが「仕舞い銭(しまいせん)」である。

これは、「1年間よく働いたな、来年もよろしく頼むぞ」という感謝と激励の気持ちを込めた、いわば“ご褒美”。金銭だけでなく、着物や酒、餅などの品物が渡されることもあったという。

◆豆知識:仕舞い銭っていくらくらい?

江戸中期の記録によれば、丁稚に対しては銀1匁(今でいうと3,000円程度)を渡すケースもあった。番頭クラスになると、5匁や10匁といった“クラスアップ”した金額が支払われたという。

身分や貢献度によって差がある点は、現代の評価連動型賞与と似ている。


第3章|武士のボーナス?「恩賞」文化にみる報酬のルーツ

商家だけでなく、武士の世界にも賞与に通じる文化があった。それが「恩賞(おんしょう)」である。

戦国時代、武将が家臣に戦の功績や忠義に応じて金品や土地を与えるのは常だった。これにより家臣はモチベーションを保ち、次の戦でも忠義を尽くす。

これは現代における「成果報酬型ボーナス」の原点とも言える。

「結果を出せば報われる」仕組みは、当時から人を動かす力があったのだ。


第4章|明治の文明開化とボーナス制度の“近代化”

明治時代に入り、西洋式の企業運営が取り入れられるようになると、商家の“仕舞い銭”や武士の“恩賞”の考え方が制度として洗練されていく。

その先駆けとなったのが、三井銀行(現・三井住友銀行)である。明治20年代、同行では年2回の賞与制度を導入。成績に応じて支給額を調整し、職責と成果のバランスを取る工夫もなされていた。

◆豆知識:明治時代の賞与はどれくらい?

明治30年ごろの三井銀行では、支店長で年俸500円+賞与100円前後、一般事務員で年俸150円+賞与30円程度が相場だったと言われる。現代の物価で換算すると、賞与30円はおよそ10万円強の価値にあたる。

支給の目的は「優秀な人材の引き留め」と「企業への忠誠心の醸成」。これは今の中小企業にも通じる視点である。


第5章|賞与の本質は“心の通貨”

江戸の「仕舞い銭」も、武士の「恩賞」も、明治の「報奨金」も、本質的には「ありがとう」「よく頑張ったね」の気持ちを伝えるものだった。

経営者が“給与とは別に”支給するこの一時金は、単なる金額以上に、従業員に対してのメッセージを含んでいる。

数字では測れない貢献、日々の努力、チームへの影響力。そんな目に見えない価値に“形”を与えるのが、賞与である。


第6章|まとめ:あなたの賞与には「物語」がありますか?

冒頭のA社長は、賞与の歴史をたどったことで気づいた。

「額じゃない。賞与は“この会社で働いてよかった”と思ってもらう最後の一押しなんだ」

今年は、賞与支給時に直筆のメッセージカードを添えることにした。社員の表情が変わった。

賞与とは、働く人への“感謝”と“期待”を形にした、経営者からのメッセージなのだ。

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